渡辺の自己紹介です / その2.

1981年(昭和56年)の春、大学に進学しました。
この時の私は、特に明確な将来設計を持っていたわけではありません。
というか、何にも考えていませんでした。

お気楽な毎日だったと思います。
授業には出席していましたが、お遊びとアルバイトに明け暮れていました。

アルバイトは高校時代もしていました。
校則でバイトは禁止だった気もしますが・・・もう時効ですね。(笑)

高校時代、熱心にしたバイトは、甲子園球場でのビール売りです。
当時、生ビールはなくて、350ミリの缶ビールのみでした。
これと、乾きモノ(おつまみ)が商材です。
2ダース入りのケースを首から提げると、ズッシリときます。
「ビールいかがですか〜っ!」と叫びながら、スタンドを売り歩きます。

完全歩合性だったので、自分の工夫と努力で稼ぎが変わります。
最初の頃は何も考えず、ただスタンドの階段を昇る降りするのみ。
疲れるだけで、ビールの売れ行きは、思うように伸びません。
だんだんと、効率の良い周り方が分かってきます。
あの辺りが売れそうだ、といった勘も働くようになります。
こうなると、徐々に売上が伸び、自分の稼ぎも増えてきます。

自分の工夫と努力に結果がついてくる。
しんどい仕事にも関わらず、長続きした理由でしょう。
たまに、スタンドで知人に出くわして、赤面したこともありましたが。

仕事が終わると、自分の稼ぎを受け取って、同僚と焼き肉屋に直行です。
汚いお店でしたが、肉体労働の後の焼き肉は旨かった!
ビールは、・・・飲んでなかったことにします。
なんせ、高校生ですから。

いまの甲子園球場は、女の子の売り子が多くて、当時とは様変わりです。
私がやってた頃は、女子は皆無だったと思います。
女っ気もなく、汗と、焼き肉の脂にまみれた青春でした。


大学生になると、いろんな世界を経験したくて、それに応じてバイト先も変えました。
飲食店から、小売業、サービス業、配送、工事現場の警備員などなど。

ホテルでルームメイクの仕事をしたときの話です。
この時、ペアを組んだのが、60絡みのオバちゃん。
このオバちゃん、なぜか仕事中、ず〜っと「カモメの水兵さん」の鼻歌を歌い続けます。
帰宅後も、「カモメの水兵さん」が頭の中でグルグル回って、眠れなかった経験があります。

大学時代、仕事そのものが楽しかったバイト、というのは思い浮かびません。
ただ、バイト仲間や先輩など、友人関係が広がったのが貴重でした。
クラブに入っていなかったので、大学時代の友人は、殆どがバイトで知り合った人達です。
みんな色んな学校の学生達で、年齢もマチマチです。
なかには、おっちゃんもいました。
人生の良き師匠でしたよ。
良いことも、そうでないことも、色々と教わりました。


大学の2年生も後半になると、周りは就職について真剣に考え出します。
私は、「大手企業に就職できれば良いな〜。」と呑気なもんでした。
特にコネもなく、自力で就職先を見つける必要がありました。

当時は就職氷河期。
なかなか内定をもらえない先輩達を見ていると、さすがに焦りました。
名のある企業は相手にしてくれない、という現実を知りました。
そうなって初めて、将来のことを真剣に考えるようになりました。
(遅いっちゅうねん!)


” 蔵のうちの宝は尽きるとも、身のうちの宝は尽きず。”
当時、母が、よく口にした言葉です。

公認会計士になろう。

唐突に思いついたわけでは、ありません。
ずっと、興味はもっていました。
専門家に対する憧れもありました。

ただ、憧れてはいたものの、自分の学力を考えて、二の足を踏んでいました。
大手企業が相手にしてくれないんなら、自分の憧れを実現しよう。
そう決心して、大学3年の秋から受験勉強に突入しました。

自分のオツムの出来は期待してなかったので、死ぬほど勉強しました。
それまでの人生で、最も勉強した時期でした。
ただし、受験勉強というのは、ただの ” お勉強 ” ですが。


人間やれば出来るもんです。
奇跡的に?、公認会計士の第2次試験(当時)に合格しました。
1985年(昭和60年)夏のことでした。
無茶苦茶に嬉しかったと同時に、武者震いが出ました。